書籍の中にいる人物にも、この私が今ありありと感じている意識の連続によって成り立っている現在・現実という時点があり、またかつ、それに直面し、対峙していた「時間」というものがあったのであろう。
ただ、この私の現在・現実というものが如何なる足場を以て成り立っているのか、ということの説明ができないうちには、そのような仮説も机上の空論に留まり、その実体を持たないであろう。
しかし、この私において成り立っている、あるいは成り立っていた事態が、私以外の人間についてそうではない、ということもまた言い難い。同じ人間という類において、成り立っていることを演繹的に敷衍することが不可能である、という為には、また一歩踏み込んだ論理が必要であろうと思う。
語られることと、それ自体がそうであったところのものは全くの別であろう。
こんな想像をしてみる。
史実として語られた一個人の生涯は、その個人が直接経験したそれとは似ても似つかないであろう、ということを考えてみる。
年号と出来事で構成されたそのものの中には、私が今ありありと感じている触覚もなければ、嗅覚もない。
酷い悪寒が止まない夜もなければ、清々しい朝の香りもない。
ただ、おそらく当事者としての彼らは私が経験しているようなそれらを感じていたことだろうと思う。
しかし史実はそれを描写できない。
史実としては語ることができない彼らを現実存在としての存在者と定義するならば、この私は直(じか)にその現実存在者である。
彼らの現実存在感のようなものを、この私である現実存在者は共感することはできないだろう。
この私しか現実存在者である可能性がない、というような独我論的な観点から世界を観察することもできるかもしれない。
ただ、そうではなく、彼らにとっても生き生きした朝があり、また鬱屈とした感情があり、といったことを考えると、この意識の連続を持つ現実存在者としての私たちが共通項を持っているということは不可思議に思えた。