世界の複雑性をそのままに言語を通して描写するということについて

分かりやすさや明瞭に語ることについての価値のようなものはビジネスの世界で強い立場をもっているように思う。

それが自明に正しいことであり、そうあるべき、といった価値観から一旦距離を置いて、この複雑怪奇な世界をありのままに描写するということに主眼を起き、考えてみたい。

 

ここで一つの問いを立ててみる。世界は論理によって構成されているのか、論理によって世界は構成されているのか、といった問いである。

 

前者であったとするならば、世界は論理ではない、ということがない前提によってその定義を限定されることになるが、後者の場合、世界の側が基礎的であって、それを描写する手段として論理が方法的に扱われれる、といった立場になる。

 

このことは、一見瑣末な話の方でいて、そうではないだろう。

 

なぜなら、事態の正統性を問うたときに、前提となる確らしさが変わるからだ。

 

おそらく、世界は論理によって描写されているであろう。

 

論理が世界を構成しているとすれば、その世界と名指されたそれは静的な性質で以ってその存在を定義されているはずであり、一方で、論理によって世界が構成されているとすれば、論理はある種の手段であり、その世界それ自体は論理に何ら制約されることなく存在可能であろうと思う。

 

一言で言えば主従関係が話の主題なのであって、世界が主であり、従として論理がある、ということを前提に話を進めたいと考えている。

 

そうなった場合に、一般的な言説としての世界について端的に語るという行為そのものが、その主従関係を前提とした時に越権的なそれなのではないか、という疑問がある。

 

いわば、整理されたそれは、文学に近い虚構によって成り立つ言語によって構成された創作物に成り下がり、それ自体は何ら世界とは似ても似つかない寓物なのではないか、という気がしている。

 

そうであったとして、何が問題なのか、という問いに対しては、いますぐ答えを持ち合わせているわけではないのだが、それが性質として、虚構の元に成り立ち、それ自体が実在的な意味での価値を持たないのではないか、というくらいの仮説だけが残る。

 

ここまで言及してしまうと、実在的な世界がそもそも成り立つのか、といった問いも可能であり、それに対する回答は持ち合わせていないのだが、少なくとも、構造上はそのような言説の無意味さのようなものを明示するだけでも、この本文がある意味のようなものは認められるかもしれない。

 

通俗的なイメージによって構成されたライフプランや、帰納的推論の結果導き出された陳腐な仮説的未来について私たちはなぜ一喜一憂する必要があるのだろうか。

 

それらになぜ人は病み、そのことに対する関心に時間を割いてしまうのだろうか。

 

それらの仮象的言明が立ち現せる幻想に対して直視するのではなく、このありありとした現在に対峙せずして、何を思考すべきというのか、ふと疑問に思うことがある。

 

もちろんそうしたことによって、世俗的な意味での意味のようなそれは獲得できないだろうと思う。

 

しかし、それ以外に思考すべき課題が私の目の前にあるようにも思えない。

 

手垢のようにこびり付いている世俗的な価値のようなものについて、それに私が限定されることなく、本来考えるべき問いについて直視できるような自由さを獲得しようと努めたいと常に思いながらも、それ自体の虚無性も自覚しており、またそれがプラトンの洞窟の比喩のような形でニヒルな意味を帯びていることもまた事実であり、その動的な反復の中でただ思考を巡らすことしかできない現実もまた、受け入れるしかない。

 

常に静的な意味付けによって世界を切り取ろうとする言語の働きに対して、常に変化するこの現実にどうアプローチできるのかといったことが一つの困難であり、ある種、それに自覚的であるということ自体に答えがあるような気もする。

 

限界を限界として定義すること、それ自体でそれ自体に意味はないとしても、そのことによる意味の変容は副作用として考えうる。その副作用こそが直接それと言い表すことよりも現実に近いとすれば、それはそれ自体で意味を持つのではないだろうか。

 

そういったことを考えながら、この世界の複雑性をそのままに言語を通して描写することの前口上として、いやそれ自体がその描写として記録しておきたかった。