読書について考えてみたい。
本を読む意味についてである。
書かれたことを忠実に(これは果たして可能だろうか)理解するということを因果的に記号の意味を捉えることと定義してみよう。
一方、書かれたことから想像する内観の活動を記号の意味を類似的に捉えることとしてみよう。
私はおそらく、後者のような読み方をすることが多い。本を読みながら関連する事柄が連鎖的に想起されてくるし、それによって単的な思考のノードを類似というエッジで繋いでいく作業が好きだ。
そのように読書をしていると、本自体の内容はほとんどと言っていいほど覚えていない。
これは読書なのかと言われると答えに窮するが、少なくとも、私の体感としては(常にそうできるわけでもないのだが)ツリー状に観想(思弁)が連鎖していく感覚が非常に心地よい。
またこれは個人に集約され、完全にその構造自体はオリジナルなものであろうし(それらのノードは複写的かもしれないが)それは自己増殖的に広がっていき、中心を持たなくなる。
正確には、次第に中心を持たなくなっていく。
この中心を持たなくなっていくという点でこれはツリーではなく、リゾームなのかもしれない。
このような、構造化されたものではなく、無秩序に見える変化の連続こそ、現実的なものの表れとして一義的であるように思う。
もちろん、思考法のようなフレームワークに乗せた場合にはその限りではないが。