物質的な世界と一方で精神的な世界のあり方があると言うことについて

ECサイトを眺めながら、消費社会において構成された消費する機会として成り下がる人生ではなく、この私自らが選択し、またそれによってある種の豊かさを持つようなことを考えてみようと思う。

 

それは、書籍や、ある特定の思想についての探究であり、それ自体は他者から見れば何ら意味という意味を持たない複雑怪奇なものかもしれない。

 

しかし、その効果自体が俗世との隔絶を意味し、それによって報われる何らかの意味を持つとしたならば、それに対する探究や希求、指向性はどのような(実存的な)意義を持つだろうか、とふと考えてみたい。

 

それは外見としては、ある特定の信仰に自我を埋没させることとそう大差はないはずである。

 

しかし、それでもなお、軽薄な進行とは違う何かがあると言う、その正統性を証明する手立ては現時点ではないのが本心である。

 

ただ、数と性質のパラドクスは古代ギリシャの、かの有名なソクラテスの弁明にもみられるように、常に保留すべき性質の一つとしてはよく知られているだろう。

 

この精神世界は一般的なそれらの価値観とは隔絶しており、それはまた資本主義の精神を持たないものである。

 

一見すればそれは狂人の信仰であり、それは多数であると言うことからは導かれない歪な様相を持つ信念である。

 

ただ、人々が正当性から正統性へとその思考の深度を変えたとき、それは事実としてその相貌を現すだろうと私には思われる。

 

それはある種の精神的な革命であり、それはそれを経ない人々からすれば狂信である。

 

ただ、確実であるのはそれは理性という綱渡りを経ることで確実に到達することであり、何ら狂人のそれではない。

 

ある意味でそれは理性を信ずる身の上においては、未だ明らかにされていなかったことであるが、自明であるといった性質のことであり、何ら新規性はないはずなのだ。

 

だがしかし、その現実的な価値判断の体系とは異なると言う意味においては狂気の沙汰である。

 

 

解体・分析の概念について

ある対象について考えたときに、それは理性の形式をもとに以下の三要素に分けて整理することが可能であると思う

・定義

・条件

・論理(メカニズム・因果・階層)

 

ただ、基本的に対象は自然状態では上記のような構成要素を持っているわけではない。むしろ、そのような構成要素を持たせることはある種の虚構的な振る舞いであり、それ自体に真理性があるというわけでもないだろう。

 

また、ある意味でそのような構造分解は、対象をStaticに定義する。本来あった複雑さや、曖昧さを排除して、認識の形式に複写したものといった方が正確かもしれない。

 

それはシニフィアンシニフィエといった分析によっても明らかであると思う。

 

ただ、この分析する過程を経ることによって、その対象は限界付けられている一方で、今まで見えていなかった様相を明らかにするといった見方もできるだろうと思う。

 

つまり、言語化・概念化の過程を経てその対象は変容する。

 

それは、そのものの本質といったものが「物自体」として、本来成り立ち得ないと仮定するならば、その虚構性は、ある意味で一つの相貌として事実となる。

 

それは物自体に由来する因果関係から見ると正当ではないのかもしれない、と思うがそもそもがその因果関係を満たすことができない故に、その虚構性自体が否定され、それがある種の事実(解釈)としては真となる。

 

そうなると、先に明示したような、対象の限定化やStaticな定義といった定義は果たして妥当な判断なのだろうか?と言う疑問が湧いてくる。

 

それ自体が創造的な、Dynamicな活動のように見える。

 

そうなると、それまで考えていたような解体・分析といった行為は対象を限定する、といった消極的なものではなく、対象を新たに解釈する積極的な創造性へと昇華する。

 

そして、自然状態にないそれらの概念分析、構想力によって与えられた虚構性は、ある事実として立ち現れることとなるだろう。

 

すべての論理は客観的にそう成り立ちうると言う正統性を担保しているだろうか

論理は純粋であり、それは一般的な概念の全て、つまり普遍的な性質を持つかのように見えるがそれは真実だろうか?

 

ある言明について、それがすべての主語に対応する対象を文法的には指定していたとしても、それが文法的にそうである、こと以上の意味を持つのだろうかと考えてみたい。

 

つまり、現実的な可能性と、論理的な可能性について考えたときに、我々(あるいはこの私)は、文法的に成り立ちうるというこのことだけで、その言説が論理的な可能性のみならず、現実的な可能性のすべてについても言及できてしまうと考えてはいないだろうか。

 

あらゆる価値判断や、能力強化のための方法について、それは万人に適用であるかのような様相を持つ。それはなぜかといえば、概念それ自体が一般的であり、そのためにその概念は普遍的な性質を持ち、よってその概念によって描写されたものが、論理的な可能性と現実的な可能性の双方を満たすことが自明であるかのように見かけ上見えてしまう。

 

あるいは、論理的な可能性は推論によって検証が可能であるが、現実的な可能性について、それが妥当的なものであるかどうかは経験的にしか証明する手段がない。さらにはその経験的な手段は実存的であることが前提であり、それが誰かによって可能であると言うことが、この私にとっても可能であることは保証されない。

 

にもかかわらず、言説の多くは一見誰かにとって証明された故にこの私においても可能であるかのような文法上の正しさにおいての限定的な証明を行う。

 

しかし、言説の現実性、実現可能性についてはこの私と言う実存が証明するしかなく、その方法以外に、現実性は明らかにならないはずだ。

 

ただ、基本的に言説の多くはその正統性の手続きを履行することができない。なぜなら言説を発する主体は実存的なこの私ではないからだ。

 

故に、考慮しなければならないのは、いくら真実らしい言説のそれらは、本来この私においてしかその正しさは証明されないはずであると言うことである。

 

また、真理となることの条件には信念が含まれるであろう。それが真と信じないのにもかかわらずそれを真理と認めることはできなはずである。

 

その真であるか否かの判断はこの私に託されており、またその信念を担保するプロセスはこの私の経験と判断、あるいは推論にしかないはずである。

 

そうなると、この私においてその正統性を担保されていない言説のすべては偽であるが、判断の形式としては文法はその正当性において強い印象を与える。

 

つまり、正統性のない言説であれ、それが文として成り立つというその論理的な構成によってのみだけで一見正統性があるかのように見えてしまうのが文法構造から起こる誤謬である。

 

よって、すべての確からしい言説の全てについてはその正しさ・真理性については判断を保留されるべきであり、またその言説の証明は他の誰でもないこの私にのみ与えられている特権である。

 

どのようにある知的領域を獲得するのだろうか

ふと、こんなことを考えていた。

何か特定の分野について明るくなる、ということは、どのような経過を辿るのだろうか。

 

ある特定の分野に関わる単語を獲得し、その対象に関連する概念の数々を集める。その集めた概念が、数が増えるごとに類を成していく。

 

これは細菌がコロニーを作っていくことに似ているように思う。

 

概念それらが複数繋がり、ぼんやりとしたまとまりを帯びてくる。

 

それが集落(コロニー)となる。

 

コロニーはそれ自体で引力を持ったかのように、関連する概念はその中心へと集まっていく。

 

その後も集積した概念の数々は集落を作るという二次元的な集合概念と同時に、徐々に階層化されていく。

 

それは三次元的な広がりである。

 

概念は二次元的な延長と集約を行い、またそこに三次元的な奥行きや階層づけが自然となされていく。

 

そして、それらの概念を仕様して言語行為を行うことによって、それらは一部否定され、再構築されていく。

 

このようなライフサイクルを経て、知は家族的・血統的な体系を持つようになり、それは経験や指向性によって拡大や、変化をし、生成しながらも消滅し、それでありながら同一性を持ちながらも侵食していく。

 

それは中心を持たないかもしれない。

 

ある別のカテゴリーと繋がり、別の環と交わるように、あるいは離れるようにして伸長していく。

 

また当初想定されていた構造は解体され、再度構築されていく。

 

同一的かと思われたものが非同一として再解釈され、それは再び同一的になり、構成されていく。

 

このようにして当初それとしてあったものがそれではなくなり、あれはこれとなり、といったようにして変容してゆく。

 

それは閉じた体系ではなく常に生まれ、消滅し、再度群をなし、散逸しながらも構造をなし、その構造は解体されながらも再構成されていく。

 

そんな(装置のような)仕組みを持ちながらおそらくはこの説自体も解体されつつも再構成されてゆくのではないか。

指向性について

私は、複雑な対象を分節化し、かつそれらの要素の原因・起源を特定することで当初複雑に見えていた対象を解体することで、再度自ら意味づけをする作業が好きだと思う。

 

複雑な対象を単純化する(Model化)のではなく、その複雑さを要素へ分解してから回帰させることで、当初見えていた感じ方とは異なるようにそれが変容する。

 

変容は対象としては同一でありながら、構造化され、かつ意味付けされるという観点では非同一である。

 

しかし、そのようにして変容した対象は、対象としての位置を外れることはない。

 

これはある種観念的な作業であり、もし仮に二元論的な世界観において対象が客観にあるものと定義するならば、それは説明のつかないパラドクスを発生させるかもしれない。

 

ドメインが決まっていない開発会議の話

A:「どちらのDBに保存しても一応作れますが、個人的にはこっちのDBに作成した方がいいと思ってます」

 

B:「それってそもそもどのように情報が扱われて、サービスとしてどのような目的で運用されるか決まってるんですか。その情報の保有期限とか・・・」

 

ざっくり上記のような会話が開発会議で上がった。

 

ここで感じるのは、Aはモデルレベルの話をしていて、Bはドメインレベルの話をしている、ということである。

 

ドメインとは、対象ユーザーの活動や関心と関係があるもの、平たく言えば目的になるだろう。

 

単純にシステムを作る、という観点ではなく、結局サービスとしてどのような価値を生み、それがどのような手段で以ってその価値が実現されていくか、という観点の考察(設計)が無くして、そのサービスの良し悪しは決めることができないだろうと思う。

 

動くシステムを作ることはできるかもしれないが、前提となるシステム設計(モデル的な定義ではなく、ドメイン指向での定義)がない場合、そのシステムには成功も失敗もない。いやむしろ何らかの目的が達成されないという意味では全て失敗になるだろうと思う。

 

事業会社であれば当然の観点なのだろうが、このようなドメインレベルでの設計がないままシステムを作るとして、受託開発であれば問題ないのかもしれないが、自社開発企業ともなるとかなり問題だと思う。

 

いわゆる社内受託開発のような構造になってしまった時は開発サイドからドメイン設計の提案ができると良いのだろうとも思う。

ビジネス要件とドメイン駆動設計

貨物業務を例にして

例1.1にて

ドメイン駆動設計」の中で、貨物業務を例にドメイン駆動設計の実例が示されていたので、実例を踏まえてドメイン駆動設計とは何たるかの解像度を上げてみたい。

 

本書で示されているのは、当初コンテナの予約アプリケーションの責務が貨物と航海(実際には貨物船にあたるだろうか)の関連付けを行うことだったが、ビジネス要件を洗い出した結果、本来システムとして処理したいのは輸送日程の手配よりも物理的な積荷作業を行う下請け業者間の責任の所在を明らかにすることによって見える法律書類や支払い免除につながるプロセスだった(一部解釈含む)、との記載がある。

 

つまり、このことからドメイン(ユーザーの目的や活動)が貨物と航海の関連付けから導かれる輸送日程の管理から、コンテナを扱う業者者間の責務の明瞭化によって明らかになる法的な拘束力の有無を管理することへと変化したことがわかる。

 

対象となるシステムのモデルレイヤーで設計した時に、おそらく対象のビジネス固有の特性や、価値基準はわからないだろう。

 

あくまでドメイン(ユーザーの関心・行動・目的、システムを通して解決したい課題など)指向で設計をすることで、システムの仕様が実際のビジネスに寄り添う形で更新されていく例が示されているのであろう。

 

これはおそらく、モデル(現実の断片を抽出した表現形式)をベースに考えていた時には見えてこなかった観点であって、あくまでドメイン駆動設計をすることによって見つかる観点である、というのが本書が示したいところなのだろうと思う。

 

あくまで理念的な話であり、より方法論的な面で展開するとクリーンアーキテクチャなどと関連してゆくのかもしれないが、今のところその範囲まで考察できるインプットがない状態なので、この記事ではここまでで留める。