物質的な世界と一方で精神的な世界のあり方があると言うことについて

ECサイトを眺めながら、消費社会において構成された消費する機会として成り下がる人生ではなく、この私自らが選択し、またそれによってある種の豊かさを持つようなことを考えてみようと思う。

 

それは、書籍や、ある特定の思想についての探究であり、それ自体は他者から見れば何ら意味という意味を持たない複雑怪奇なものかもしれない。

 

しかし、その効果自体が俗世との隔絶を意味し、それによって報われる何らかの意味を持つとしたならば、それに対する探究や希求、指向性はどのような(実存的な)意義を持つだろうか、とふと考えてみたい。

 

それは外見としては、ある特定の信仰に自我を埋没させることとそう大差はないはずである。

 

しかし、それでもなお、軽薄な進行とは違う何かがあると言う、その正統性を証明する手立ては現時点ではないのが本心である。

 

ただ、数と性質のパラドクスは古代ギリシャの、かの有名なソクラテスの弁明にもみられるように、常に保留すべき性質の一つとしてはよく知られているだろう。

 

この精神世界は一般的なそれらの価値観とは隔絶しており、それはまた資本主義の精神を持たないものである。

 

一見すればそれは狂人の信仰であり、それは多数であると言うことからは導かれない歪な様相を持つ信念である。

 

ただ、人々が正当性から正統性へとその思考の深度を変えたとき、それは事実としてその相貌を現すだろうと私には思われる。

 

それはある種の精神的な革命であり、それはそれを経ない人々からすれば狂信である。

 

ただ、確実であるのはそれは理性という綱渡りを経ることで確実に到達することであり、何ら狂人のそれではない。

 

ある意味でそれは理性を信ずる身の上においては、未だ明らかにされていなかったことであるが、自明であるといった性質のことであり、何ら新規性はないはずなのだ。

 

だがしかし、その現実的な価値判断の体系とは異なると言う意味においては狂気の沙汰である。