すべての論理は客観的にそう成り立ちうると言う正統性を担保しているだろうか

論理は純粋であり、それは一般的な概念の全て、つまり普遍的な性質を持つかのように見えるがそれは真実だろうか?

 

ある言明について、それがすべての主語に対応する対象を文法的には指定していたとしても、それが文法的にそうである、こと以上の意味を持つのだろうかと考えてみたい。

 

つまり、現実的な可能性と、論理的な可能性について考えたときに、我々(あるいはこの私)は、文法的に成り立ちうるというこのことだけで、その言説が論理的な可能性のみならず、現実的な可能性のすべてについても言及できてしまうと考えてはいないだろうか。

 

あらゆる価値判断や、能力強化のための方法について、それは万人に適用であるかのような様相を持つ。それはなぜかといえば、概念それ自体が一般的であり、そのためにその概念は普遍的な性質を持ち、よってその概念によって描写されたものが、論理的な可能性と現実的な可能性の双方を満たすことが自明であるかのように見かけ上見えてしまう。

 

あるいは、論理的な可能性は推論によって検証が可能であるが、現実的な可能性について、それが妥当的なものであるかどうかは経験的にしか証明する手段がない。さらにはその経験的な手段は実存的であることが前提であり、それが誰かによって可能であると言うことが、この私にとっても可能であることは保証されない。

 

にもかかわらず、言説の多くは一見誰かにとって証明された故にこの私においても可能であるかのような文法上の正しさにおいての限定的な証明を行う。

 

しかし、言説の現実性、実現可能性についてはこの私と言う実存が証明するしかなく、その方法以外に、現実性は明らかにならないはずだ。

 

ただ、基本的に言説の多くはその正統性の手続きを履行することができない。なぜなら言説を発する主体は実存的なこの私ではないからだ。

 

故に、考慮しなければならないのは、いくら真実らしい言説のそれらは、本来この私においてしかその正しさは証明されないはずであると言うことである。

 

また、真理となることの条件には信念が含まれるであろう。それが真と信じないのにもかかわらずそれを真理と認めることはできなはずである。

 

その真であるか否かの判断はこの私に託されており、またその信念を担保するプロセスはこの私の経験と判断、あるいは推論にしかないはずである。

 

そうなると、この私においてその正統性を担保されていない言説のすべては偽であるが、判断の形式としては文法はその正当性において強い印象を与える。

 

つまり、正統性のない言説であれ、それが文として成り立つというその論理的な構成によってのみだけで一見正統性があるかのように見えてしまうのが文法構造から起こる誤謬である。

 

よって、すべての確からしい言説の全てについてはその正しさ・真理性については判断を保留されるべきであり、またその言説の証明は他の誰でもないこの私にのみ与えられている特権である。