どのようにある知的領域を獲得するのだろうか

ふと、こんなことを考えていた。

何か特定の分野について明るくなる、ということは、どのような経過を辿るのだろうか。

 

ある特定の分野に関わる単語を獲得し、その対象に関連する概念の数々を集める。その集めた概念が、数が増えるごとに類を成していく。

 

これは細菌がコロニーを作っていくことに似ているように思う。

 

概念それらが複数繋がり、ぼんやりとしたまとまりを帯びてくる。

 

それが集落(コロニー)となる。

 

コロニーはそれ自体で引力を持ったかのように、関連する概念はその中心へと集まっていく。

 

その後も集積した概念の数々は集落を作るという二次元的な集合概念と同時に、徐々に階層化されていく。

 

それは三次元的な広がりである。

 

概念は二次元的な延長と集約を行い、またそこに三次元的な奥行きや階層づけが自然となされていく。

 

そして、それらの概念を仕様して言語行為を行うことによって、それらは一部否定され、再構築されていく。

 

このようなライフサイクルを経て、知は家族的・血統的な体系を持つようになり、それは経験や指向性によって拡大や、変化をし、生成しながらも消滅し、それでありながら同一性を持ちながらも侵食していく。

 

それは中心を持たないかもしれない。

 

ある別のカテゴリーと繋がり、別の環と交わるように、あるいは離れるようにして伸長していく。

 

また当初想定されていた構造は解体され、再度構築されていく。

 

同一的かと思われたものが非同一として再解釈され、それは再び同一的になり、構成されていく。

 

このようにして当初それとしてあったものがそれではなくなり、あれはこれとなり、といったようにして変容してゆく。

 

それは閉じた体系ではなく常に生まれ、消滅し、再度群をなし、散逸しながらも構造をなし、その構造は解体されながらも再構成されていく。

 

そんな(装置のような)仕組みを持ちながらおそらくはこの説自体も解体されつつも再構成されてゆくのではないか。