解体・分析の概念について

ある対象について考えたときに、それは理性の形式をもとに以下の三要素に分けて整理することが可能であると思う

・定義

・条件

・論理(メカニズム・因果・階層)

 

ただ、基本的に対象は自然状態では上記のような構成要素を持っているわけではない。むしろ、そのような構成要素を持たせることはある種の虚構的な振る舞いであり、それ自体に真理性があるというわけでもないだろう。

 

また、ある意味でそのような構造分解は、対象をStaticに定義する。本来あった複雑さや、曖昧さを排除して、認識の形式に複写したものといった方が正確かもしれない。

 

それはシニフィアンシニフィエといった分析によっても明らかであると思う。

 

ただ、この分析する過程を経ることによって、その対象は限界付けられている一方で、今まで見えていなかった様相を明らかにするといった見方もできるだろうと思う。

 

つまり、言語化・概念化の過程を経てその対象は変容する。

 

それは、そのものの本質といったものが「物自体」として、本来成り立ち得ないと仮定するならば、その虚構性は、ある意味で一つの相貌として事実となる。

 

それは物自体に由来する因果関係から見ると正当ではないのかもしれない、と思うがそもそもがその因果関係を満たすことができない故に、その虚構性自体が否定され、それがある種の事実(解釈)としては真となる。

 

そうなると、先に明示したような、対象の限定化やStaticな定義といった定義は果たして妥当な判断なのだろうか?と言う疑問が湧いてくる。

 

それ自体が創造的な、Dynamicな活動のように見える。

 

そうなると、それまで考えていたような解体・分析といった行為は対象を限定する、といった消極的なものではなく、対象を新たに解釈する積極的な創造性へと昇華する。

 

そして、自然状態にないそれらの概念分析、構想力によって与えられた虚構性は、ある事実として立ち現れることとなるだろう。