#自分で考えるということの形式
章:思索の冒頭で、彼の特徴的な立場が現れている。
それは、受動的な学習や読書ではなく、能動的に考える(思索する)ことに重きを置いていることだ。
ただ、彼は考えるためには知ることが必要と言っているように、学習や読書を否定しているわけではない。
つまり、ここには単純な二項対立の図式があるのではなく、学習を経て思索へ向かう構造が描かれていると理解すべきだろうと思う。
ここで考えるということをより明瞭にすべく、以下のように考えることのうちに含まれる要素を整理したい。
考える
∟構造化する(階層)
∟意味づけする(概念化、定義)
∟論理的である(因果)
”考える”と一口に言っても、それは各人の定義による捉え所のない概念であるから、ここで”考える”こと自体を構造化し、それによって意味を与えたい。
#読書は他人に考えてもらうことである
ショーペンハウエルは警句の切れ味がすごい。ニーチェはショーペンハウエルに影響を受けた哲学者の一人であるが、その思索のスタイルは似ているところがある。
この警句もまた、真理を言い当てた含蓄ある一文だ。
ただ、ここでこの警句は循環性を持っていることを見逃してはならないだろう。つまり、この「読書について」を読んでいる私に対しても、この警句は有効だということである。
単に、ショーペンハウエルの言説に肯定的である態度は、彼が指摘した「読書をすることで他人にものを考えてもらう」人であるにすぎない。
つまりこの警句を読む読者は、読者という外の位置にいるのではなく、内に組み込まれていることに注意する必要があるだろうと思う。