現代思想12月号 【特集】大森荘蔵 生誕100年 を通して

私と大森荘蔵

私は学部生時代に卒業論文のテーマとして西洋哲学の時間論というテーマをとりあげた。

 

卒業論文を書く前から、処刑される囚人の生が死に変わる瞬間を、傍観者である私は直に知覚できるのか、と考えていた。

 

知覚(今回は特に視覚について)は義務教育までで教わったことを基本として考えてれば以下のような内容である。

>対象があり、その対象に光が当たり、あたった光が反射して網膜に到達し像が見える

 

上記が正しいならば、私は、この刻々と流れる時間の中で、その瞬間を厳密な意味では捉えることができないのではないか、というのが疑問であった。

 

ひょんなことから、言語学系の学会の参加をゼミの教授に勧められ、時間について言語学的な視点から発表していた教授に質問を投げてみたが、歯切れの悪い回答が返ってきただけだった。

 

それなりに著名な学者だと思われた人からも回答がないということで途方に暮れていたところ、たまたま手にした本が大森荘蔵の著作であった。

 

当時の問題意識を解決する手段が、大森が定期した「立ち現れ一元論」という理論で解決できるのではないか、ということで、卒業論文大森荘蔵の思想を辿っていくことに時間を割いていた記憶がある。

 

私と大森荘蔵の接点は抱えていた哲学的問題が似ていたことに起因していた。

「額に汗して考える」こととしての哲学と私

私は勉強ができる方ではない。むしろ先生が授業の途中で話すテストに関係がない話や自分で考えることの方が好きだった。

 

中学時代に、国語の先生が以下のような話をしていた記憶がある。

 

>いまみんなが机の上に広げている本を普段「教科書」と読んでいると思う。もしこれを明日から「オッパッピー」という名前で読んだとしても、みんなは授業で使う「オッパッピー」を机の上に広げることができるよね

 

当時は何を言っているのか、とよくわからなかったが、おそらく今になって思えばその国語の先生はソシュールという言語学者を学生時代に好んで勉強していたのだろうと推測が付く。つまり、呼ばれている名とその対象の間には何ら必然性があるのではない、ということを当時の私たちに平易な言葉で伝えたかったのだろう、と感じた。

 

同じく中学生の頃、ひとり数学の授業中に数列を合計した値を計算するのに何か規則性がないか、ということを考えて式を作ってみるなどしていた。

 

そのような生徒であったから、余計に大森荘蔵の哲学をするスタイルに感銘を受けたことを覚えている。