積極的な抑止と消極的な抑止について
例えば、月々の出費を抑えたい、と思った時に、支出を減らそうと意識することは多いと思う。
しかし、それは、支出することへの指向性を保持したまま、その指向性を否定しようとする矛盾した態度であるように思う。
あるいは、支出することへの指向性ではなく、支出することに関連する対象への指向性と言い換えた方が事実を正しく表現しているかもしれない。なぜなら、支出することそれ自体を指向しているわけではないからである。
上記のような前提をもとに、目的を支出を抑えたい、ということとした場合に、合理的な意識の持ち方は何だろうか。
仮に、今まで話したような態度(支出すること、あるいは、支出することに関連する対象への指向性を持ったまま、その指向性を否定するような態度)を消極的な抑止と定義しよう。
ただ、消極的な抑止は矛盾を孕んでいるし、またそれは指向することが欲求に近い概念と考えるほどに困難なことのように思う。
なぜなら、欲求は動物的で本来的な意識の働きであると思うからだ。
そうであるならば、目的に対して、それに対するアプローチとしての消極的な抑止は合理的な判断ではないだろう。
では、どうすべきか。
例えば、人は動物本性として何らかを指向するとしたならば、その指向性自体を否定することは困難なことのように思う。
ならば、その指向性は否定することなく、むしろ積極的な意味で解釈した上で、その指向対象を意図的に変更することの方にこそ、問題を解決する糸口があるのではないか。
ここで一つの疑問は、その動物本性としての指向性なるものがあるとして、それが意図的に変更可能なのか、という問題である。
ただ、これについては、もし仮に意図的には変更不可能であったとしても、関心を広げるという対処によって偶然的であるかもしれないが変更することはできるであろうと思う。
なぜなら、指向性そのものが何ら必然性を持ったものではなく、感覚与件のうちのいずれかに対して主体が抱くものであると考えられるからだ。
そうであるならば、指向性を、今ある状態から変化させること、その前提として関心を今ある対象から別の対象へ向けることは一つの解決策になるかもしれない。
しかし、ここで注意すべきなのは支出することに関連する対象への関心を払うことがないようにする、ということである。
服が欲しかった状態から、その対象が香水に変わったとして、本来の目的であった支出を抑えることは達成できない。
であるならば、対象とすべき関心は、知識であったり、健康であったり、あるいは形而上学的な探求であったりするかもしれない。
ただ、これらの即物的な何か意外に関心が向けられない人もいるだろう。またそれらに関心を向けたとしても指向性にはなり得ない人もいるかもしれない。
そのように考えると、この積極的な抑止(指向性の対象を支出にかかわる対象以外とすること)はその主体の性質によっては成り立つことがないかもしれない。
つまり、理論的には妥当であるかもしれないが、実践的ではない可能性があるということだ。
そのようであるならば、理論的に成り立ちうることとしての言説としてこの考えは保留しておくべきであろうと思う。