言語化されるということは在るということなのだろうか

言語で在るための条件は

単語と文法によって構成される有意味な文として示されること

と定義してみよう。

 

私は背が高い

あなたはリンゴが好き

 

などの文は有意味だろう。

 

しかし、このことと、実際にそう在るということはどこまで親密な関係なのだろうか。

 

私と言った時に、発話者は実際に背が高くないかもしれない。

あなたと指示された対象は実はリンゴが好きではないかもしれない。

 

そう考えると、言語化されたからと言って直ちにそれが実際に在るということとは関係しないように思われる。

 

しかし一方で、言語化された対象しか存在しないのではないか、というのも一つの観点としてある。

 

実際に知覚などを通して在るといえることと、言語を通して知識として在ると示されることの差異が埋まることはないだろう。

 

しかし、知は伝搬され、共有されていく。それは在るということなのではないか。

 

おそらく何か前提が誤ってしまっている。

 

そもそも知覚と知識を共通に在るか否かという指標で語ろうとしているところに無理があるのであろう。

 

言語は知覚に到達できない、ということは明らかなのだろうか。

 

だとすればその当時を知ろうといくら言語的にアプローチしたとしても、それ自体は在ることにならないのではないか。

 

それでも人は言語的に制作された過去に対してトラウマを抱き、それによって精神疾患となる例がある。

 

そのようなケースが存在する、ということにおいても、知覚的に在るということと、言語的に在るということは切り離すことができるのだろうか?