哲学

何者かになり得ないという外的な関心と、この私の在り方という志向性

# 憧れと、その対象とこの私の非同一性を根拠とした同一化の不可能さについて 偉人や周囲の人間に対して、憧憬の念を持ったり、そうありたいと願う人は多いだろう。 自分よりも承認されている人とそうではない私を比較した時に感じる差異によってよりそうあ…

「解体」という意味で以って、私は何を意図してして表現しているかについての考察

世界を解体すること、が哲学の役割であるとすれば、私はその「解体」という概念をどのような意図で使用しているか、ということについて、今一度考えてみる必要があるだろう。 そして、世界をなるべくゆっくりと見回し、それ自体を描写、あるいは解体していく…

教育という概念について

# 問題提起 一見教育には積極的な意味があるように感じる。 教育することで犬は「賢」くなり、人間はその可能性を広げることができる。 逆に教育されていない犬は野生的で、またその人間は不自由である。 ただ、これは一方で自由という問題を考えた時、果た…

Not from time to existence, but from existence to time.

In thinking about the theory of time I think that the theory of time is one of the questions that occupies a major place in Western philosophy. The concept of time, which we deal with on a daily basis in our lives, is often treated as a th…

時間から存在ではなく、存在から時間へ

時間論を考える上で 時間論は、西洋哲学の中でも大きな位置を占める問いのうちの一つだと思う。日常的に私の生活や人生に対して接している時間という概念が、理論的な説明をしようとするとその実態がよくわからない、という意味で、アリストテレスやアウグス…

良い本とはなんだろうか

読書を趣味としているとおすすめの本を聞かれることがある。 ただここで私にとって良い本であっても、誰かにとっては良い本ではないということがあるのではないか、という気がする。 すると、本における「良さ」というのは、各人の尺度による、というような…

本質という概念を明晰にする作業

本質という言葉を聞くと、どこか深淵な意味があるような気がしてしまう。 しかし、私は物事を明晰に分析していきたいという欲があるので、この本質という抽象的な概念をより明晰に考えたいと思った。 私は以下のように本質を定義したいと思う(ただ言語ゲー…

世界観と主客観点

世の中に起こっている事象が全て合理的に解決できる、という前提を持った時を仮定しよう。 その場合、この世に起こる非合理的な事象は、誤りとして退けられ、より合理的な理論で解決できる道が取られるだろうと思う。 しかし、世界それ自体を「見る」時に、…

現在と過去・未来の区分

時間は現在、過去、未来から構成されていると考えるのが一般的であろう。 ここで、時間の要素3種類を、2つのカテゴリに分けてみようと思う。 A:現在 B:過去・未来 このAとBに分ける。 この2つの違いは、Aは知覚に依存し、Bは心に依存するということであ…

能力と性質の違いはどう違うのだろうか

似たふたつの概念について、それぞれがどのように違うのかを明確に(白黒を付けたい)と思うことがある。 ふと、能力と性質はどう違うのか考えたくなった。 個人的な見解に過ぎないなが、私は以下のように思った。 能力は、その存在が後天的に身につけたり、…

現在主義とは

私は哲学の中で時間論が一番好きです。 私はよく過去の記憶が生き生きと現前するような感覚に陥り、酷く精神的に辛くなることがあります。 ただ、それが仮象(客観的実在性がないもの)である、ということを明晰に理解することができれば、そのような苦しみ…

言語化されるということは在るということなのだろうか

言語で在るための条件は 単語と文法によって構成される有意味な文として示されること と定義してみよう。 私は背が高い あなたはリンゴが好き などの文は有意味だろう。 しかし、このことと、実際にそう在るということはどこまで親密な関係なのだろうか。 私…

検証作業の定式化

ある要素が事態にどのような影響を及ぼしているのかを確認することについて考えた。 要素Cについて、事態Aと事態Bを考える。 事態Aでは要素Cが存在する。事態Bでは要素Cが存在しない。 この場合に、事態Aと事態Bの差異が要素Cに起因する、と結論付けることが…

可能性の2つの顔

可能性は大きく分けて2つの見え方があると思う。 ひとつは論理的な可能性、もうひとつは現実的な可能性だ。 論理的な可能性を考えてみよう。 論理的に可能であるということはいかにして思考可能かを考える。 結論、言語的に制作できる事態はすべて論理的な…

差異が生まれるということ

差異を定式化することで、差異という概念を使う上での必須事項がいくつかあることがわかる。 差異を以下のように定式化してみる。 AとBという対象 と 特徴を示すC があることで差異と定義できる上記の定式に従うと、仮に「Aが違う」という文が言明される場合…

知覚の因果説と現在主義から帰結するパラドクス

一般的な理解として、物が見える時の説明はこのようなものではないだろうか。 対象があり、その対象に光が当たり、その光が反射し、その反射した光が私の網膜に到達し、その網膜に与えられた刺激が、信号として脳に送られ、その結果見える。 少々冗長的かも…

この私という、言語で表現できない唯一さの話

言語は物事を均質に、標準的に表現することができる道具として用いられているように思う。 例えば、私という言葉で表現されているのは、太郎でも、花子でもなく、抽象的な私を指している。 そこには話者を指すユニークなシンボルもなければ、小説の中の主人…

権力による生産 〜「学校」という場の正統性について〜

前職で、会社の同僚に、会社で開かれている研修に参加したらどうか、と言われたことがあった。 そもそも私は、研修で行うような内容を自習していたために、その必要性を感じなかったし、どこか会社や学校のようなものから与えられるものを有難がって受け取る…

テアイテトス 知識とはないか(知識それ自体への問い)

ソクラテスは、テアイテトスに「知識とは何か」という問いを投げかける。 それに対してテアイテトスは、幾何学や、人々が心得ている技術が知識である、と答える。 それに対して、ソクラテスはその答えは何の知識であるか、という何の、という点に答えている…