世界観と主客観点
世の中に起こっている事象が全て合理的に解決できる、という前提を持った時を仮定しよう。
その場合、この世に起こる非合理的な事象は、誤りとして退けられ、より合理的な理論で解決できる道が取られるだろうと思う。
しかし、世界それ自体を「見る」時に、その前提自体も「見られる」必要がある可能性について考えたいと思う。
何が言いたいのか、というと、先にあげた前提を一旦保留し、世界をそれ自体として直視することが、より純粋に分かるということなのではないか、ということを考えてみたい。
すべてのことが合理的に説明できて、全てに因果関係があり、そのすべてが法則に従っているといったような世界観を持つことも可能であろう。
これを決定論と呼称することとしよう。
しかし、人との出会いや、偶然の結果できた何か、など、当人の目的や意志とは拘らず成り立った何かがあるはずだ。
ここで議論が少しずれている。これは合理的か否かを判断する主体が客観的な存在から主体的な存在(私)にすり替わっている。
となると、先の前提も、より明瞭にする必要があるだろう。
決定論とは、客観的な存在の視点から見て、すべての事柄が合理的だと判断できるとする世界観のこと、とする方が良いだろう。
一方で、反例としてあげた命題は、主観的な存在の視点から見て、客観的な存在の視点から見た合理性は判断できないとする思想としよう。
A:決定論とは、客観的な存在の視点から見て、すべての事柄が合理的だと判断できるとする世界観
B:主観的な存在の視点から見て、客観的な存在の視点から見た合理性は判断できないとする思想
綺麗な対になっているか自信がないが、一旦ABの2つに立場を定義する。
すると、Aに対しては、客観的な存在の存在根拠を問う方向での反論ができそうであることに気が付く。
一方で、Bに対しては主観的にわからないことが同時に客観的には存在しない、ということにはならないという反論が成り立つだろう。
ここを出発点として、双方の思想を練り上げていく。