設計するということの性質についての思索

設計する、Designするということについて考えてみた。

 

一言で言えば、イメージを概念化することが設計なのではないか、という気がしている。

 

例えば、何か物を作るとして、その物を作ろうとしている時には、当然ながらその物自体は存在しない。

 

では、それを存在させるためにどうするか。

 

存在は如何なる要素で構成されているのか、について前提を整理する。

 

存在は、設計という文脈においていかにして成り立つのだろうか。

 

ここでは、アリストテレスの形相と質料の考えを引用して考えてみたい。

 

形相とは、そのものの本質であり、質料とはその物自体の物質的な意味である。

 

例えば、時計を例に考えてみよう。

 

時計の形相は何かといえば時を刻むということである。時計は定期的な速度で変化を計測する(厳密な意味で言えば、これは「時間」を計測しているのではなく、時刻を刻んでいる、という意味の方が正しいように思う)本質があるだろう。

 

一方で、時計には、水時計もあれば日時計もあり、腕時計もあれば、砂時計もある。

 

これらは全て、時刻を刻むという同一の形相において、異なる質料を持つ存在と考えらえるだろう。

 

このように、存在する対象は、形相と質料という構造を持つ、という前提を真なる前提としたときに、より詳細に設計することの「意味」がその明瞭性と複雑性を持って立ち現れるだろう。

 

ここでは、設計の中でも、ドキュメントベースの設計を念頭に置いて、その性質を明らかにしてみたい。

※例えばデッサンもまた一つの設計の在り方のように思うし、また、建築などでは言語ではなく、図面といった形で設計されることがあるだろう。ただ、これらの例は石器絵の本質を言語によって説明するにあたっては表現しにくいように思うため、以降は言語的に制作された設計というテーマに絞って話を進めたいと思う。

 

端的に言えば、言語的に制作された設計というものは、存在の前提(形相と質料)に従って、各要素について定義していく作業なのではないかという気がする。

 

そうなると、創作物によって、定義すべき要素が変化していく。

 

例えば、彫刻が創作物としたならば、一体何を決定する必要が(そのものの構造がどのようであるか、ということに限界づけられる)あるだろう。

 

それは素材やモチーフ、そういったものの定義が必要だろうと思う。

 

また展示場所というのも、その物の存在に干渉してくる要素かもしれない。

 

室内展示だからこそ表現できる限界があるはずであり、また、その逆も然りであろう。

 

ある種、設計とは、この事態の不規則な連続のうちに一つの秩序をもたらすことに思える。それは論理によって構成され、またその論理が可変の世界の一要素を静的に固定し、またそれ自体が変化の流転に埋没してゆくというダイナミックな構想が創作であり、またそれを実現する手段が設計なのだろうと思う。