内観におけるシニフィアンとシニフィエの考察

ある朝、目が覚めて怖いという感覚だけが残ってはいるが、その怖かったはずの夢自体の内容が忘れられているといったことはないだろうか。

 

このような何らかの感情と、それが表現される記号が乖離し、どちらか一方のみが残る、といったことが可能なのではないかと考えている。

 

この何らかの感情をシニフィエと定義し、それが表現される記号をシニフィアンと定義して以降の考察を進めたいと思う。

 

ここで、そのものの性質について、あるいは偶有的な性質と本質的な性質について考えてみたい。

 

このような区分けは私が知る限りアリストテレス形而上学に始まる区分だったと記憶している。

 

広く、私に現前している対象について考えたときに、ほとんど常に与えられるのは、先に定義したシニフィアンシニフィエが区別されない場合ではないだろうか。

 

厳密には、言表行為によって「それ」が現実的にあるとされるならば、相互の関係は切っても切り離せないものとなるだろうと思う。

 

しかし、一番最初に挙げた例にあるような「それ」が片手落ちの状態で私に直接与えれる場合もある。

 

この例外的なケースを、あくまで例外という意味での判断ではなく、保留してそれ自身を分析してみようと試みるのである。

 

その際に、言語学で使われる概念であるシニフィアンシニフィエがこの事象を分析する際の構造としてうまく適用できるのではないかと考えた。

 

言語学的により専門性ある言説の文脈から考えると、このような適用は意義から逸れるのかもしれない。

 

しかし、現実を分析する手段として、賢人の知を扱い、現実への理解に対してその解像度を上げることができるならば、いくつかの瑣末な批判は考慮する価値を持たなくなるかもしれない。

 

あくまで研究ではなく「探究」として考えを展開していきたい。

 

これまでの話を整理すると、夢は記号としてシニフィアン的な役割を持つ。一方で、目覚めた時の感情はシニフィエ的な役割で語ろうと思う。

 

これらのことを考えたときに類推されるのは、PTSDのような症状である。

 

戦争後も戦争当時の記憶がフラッシュバックし、心身に異常をきたすとされる障害は、この記号(シニフィアン)が感性との因果関係を持たず(あるいは、近似的に感じるその感度が高まる、とも解釈できるのかもしれない)に読むことと解釈している。

※このことに関しては専門ではないため、一種の仮説と考えてもらいたい。

 

その場合に、因果的に感情、つまりシニフィエが私に与えられ、それによって心身に異常をきたすのだろうと考えている。

 

おそらく、このような症状についての対症療法は慣れ、なのだろうが、このシニフィアンを書き換えることができればこのような障害を解決することができないのだろうか。