時間から存在ではなく、存在から時間へ
時間論を考える上で
時間論は、西洋哲学の中でも大きな位置を占める問いのうちの一つだと思う。日常的に私の生活や人生に対して接している時間という概念が、理論的な説明をしようとするとその実態がよくわからない、という意味で、アリストテレスやアウグスティヌスなどに見られるように、古来から思想史上でテーマとして扱われることが多いように思う。
時間概念を簡単に振り返ってみると、この時間は3つの概念から構成されている。それは言わずもがな過去・現在・未来である。
過去はすでに存在せず、現在は存在し、未来は未だ存在していない。
この一見常識的で何ら問題がなさそうな各時点に対する定義が、時間概念が魑魅魍魎なものであるかのような議論への出発点となる。
時間概念と現在
時間について考える上で、より基礎的な時点と考えうるのは現在であろう。なぜなら現在のみが存在しており、また現在という時点において心に直接与えらえる現象を知ることができるのだし、さらに現在という時点(正確には時点と呼ぶべきではないが)が変化の連続をし、その非同一の同一性に接するようにして意識があるのであろうからだ。
この意識や心、存在といった問題群が、現在と接している。
ただ、時間論において、この現在というもののあり方は悪い意味で概念的であり、それ以上何も語ることがない。
しかし一方で、この時間や存在、もっと広く言えば哲学の問題の多くがこの時(現在)に含まれているように思う。
そのような考えから、現在は時間論においても最重要のテーマであり、それは時間論という枠を超えて存在論、認識論の観点からの基礎付けを必要とする(あるいはそれらを基礎付ける)テーマであるように思う。
心、意識、知覚 探究の出発点
知覚されているということは存在しているということである、といったようなことを言ったのはバークリーだったと思う。観念論という哲学的立場を代表する哲学者であり、彼がロックの経験論を批判する形で打ち立てたその立場は、パラドクシカルでありながら説得力を持つ。
私はこの現在ー存在という概念の探究に際して、かつてデカルトが方法序説の中で示したように、確実なものを基礎として思索を初めたいと思う。
この確実なもの、というのは、私の心に直接与えられている現象であろうし、またこの意識、知覚であろう。
そうであるならば、現在という概念、あるいは存在という概念は、これら心や意識、知覚を分析することによってそれらの性質が明らかになるように考えるべきだろう。
一方でそのような考えは一つの前提を含み、それ自体が構造を持ってしまっている。そう言った意味では「自由」ではないかもしれないが、今選択できる道のうち、確かさの蓋然性あるのは、先にあげたような道であるように思うことに変わりはない。
つまり、時間概念からはじめるのではなく、存在や意識、心の側から探究することが問題を解決する方法として妥当であろう、というのが私の立場である。