何者かになり得ないという外的な関心と、この私の在り方という志向性

# 憧れと、その対象とこの私の非同一性を根拠とした同一化の不可能さについて

偉人や周囲の人間に対して、憧憬の念を持ったり、そうありたいと願う人は多いだろう。

自分よりも承認されている人とそうではない私を比較した時に感じる差異によってよりそうありたいと願い、また自分とその対象が近い属性であればなおさらその感情は強化されると思う。

 

もっと卑近な例で言えば、SNSに見るような、同世代、同性の誰かに抱く憧れが想像しやすいかもしれない。

 

ただ、この感情をいわば「解体」することによって、そうありたいという疲労を消去することが可能なのではないか、という仮説を元に思考を進めていきたいと思う。

 

# 前提の整理

本題に入る前に、前提を整理しておこう。

ここでの目的は、以降の話を経た結果起こるであろう「解体」が何に対してなのか、が明確になるようにすることである。

そして、「解体」には、隠れた前提が必要条件である。つまり、「解体」するためには前提が必要となる。

 

その対象となる前提が一体何か、ということが主題である。

 

前提として以下のことが考えられるだろう。

 

・「同じ」属性の私と他者は交換可能である

 

このことのみが、本稿における前提として理解されていればよい。

 

# 前提に関する補足

ここで、少し前提に補足を加えたい。

「同じ」性質の私と他者は交換可能であることと、憧れがどのように接続するのか、一見つながることがないように感じるかもしれない。

 

私は、何らかの命題を検討する際には、対象とする事態が起こり得ないことを仮定して、それが真たりうるかを検討する。

 

ここでは、憧憬の念が起こり得ないケースを考える。

 

例えば、私が仮に男性であり、かつSNSを使わないとして、女性のインフルエンサーに憧憬の念を抱くだろうか。

 

私が女性であったとして、狩猟に長けた男性に憧憬の念を抱くだろうか。

 

このように考えた時、私は、その対象と何らかの類似性がない限り、その対象への憧憬の念は起こり得ないのではないか、と仮定する。

 

ただ一方で、私とその対象に類似性があるということが、憧憬の念を抱く十分条件ではないことも確かであろう。

 

しかし、ここで確かだと認めうるのは、類似性がないならば憧憬の念は抱き得ないことである。これは否定的な意味で憧憬の念の本質を明らかにしたと言えないだろうか。

 

# 存在について その同一性と非同一性に関する私と他者の関わりについて

ここで、この類似性の概念をより検討していきたい。

一言で言えば、存在は類似性によって語りうるものではなく、非同一の同一性によっていわば連続するのであり、類似性が認められたからといってそこに互換性はない、ということをいかに明瞭に示すか、ということが最終的な目標である。