世界を解体すること、が哲学の役割であるとすれば、私はその「解体」という概念をどのような意図で使用しているか、ということについて、今一度考えてみる必要があるだろう。
そして、世界をなるべくゆっくりと見回し、それ自体を描写、あるいは解体していくことを哲学の価値をした場合に、私は世界に対してどのような関わり方ができるのであろうか。
さらに、帰納的推論と演繹的推論の比較を元に、世界を解体するということが辿るべき道筋のようなものが提示できれば良い。
# 解体の前提
これからの知的な作業に当たっては、私たちは知るということについて観察しなければならない。
いかにして知りうることができ、またいかに世界自体を認めているかについて。
一つの前提を考えてみよう。
私が判断する場合あるいは、知る場合に、そこには何らかの隠れた前提がないだろうか。
より踏み込んでいえば、前提が介在しない判断や認知は成り立ちうるだろうか。
メタ的に思考した場合、このこと(何らかの前提なしに、私は判断、認知をすることができない)は自明なこととして認めて良いだろう。
デカルト的に、自明で確実なものから推論を出発させるようにという原理に習った場合に、これは一つの確実なものとして認められて良いであろう。
# 自明であることと無限後退
では、その確実なもの自体について、またその正統性を探求しようとしたときに、当然と言えない限界がある。
なので、ここでは自明であるということについては、それ自体で検討することはせず(むしろこの検討こそが正しさについての探求における起点になるのであろうが、今回の目的は構成することであり、「無意味」を炙り出すことではない)先に進もう。
# 解体によって何が起こるか、またなぜ解体が必要か
解体は、世界に対する前提とそこから導き出される推論のうち、真と認めたれているように見えるものが偽であることをロゴスを元にたどり、この私における世界を変容させることが最終的な目的となる。
これがなぜ必要なのか。
まず、真と認めれているように見えるものが果たして真であるかどうか、という検討をすることなく私が推論をそれ自体で正しいものと受け取っているとしよう。
そうした場合に、私は未検討な命題を真なるものとして受け取り、それ自体を自明なものとして、何ら検討することもなく受け入れているであろう。
しかし、前提として真なるものを希求することが哲学者としての使命とするならば、そのような未検討な真と認められているように見えるものを未検討のまま真として扱うことは私自身に対する欺瞞ではないだろうか。
また、その推論の経過として、帰納的に推論することの課題(過去の事象・事態は未来の事象を・事態を保証しない)についての理解がないままに、いわば科学的に推論することは、真あるものを探求する姿勢として幾許かの不誠実さを感じざるを得ない。
ただ、それは帰納的に導かれた仮説を否定するという意味ではなく、扱う事柄の性質によって推論の形式を変更することが必要であろう、という意味での話である。
以上が解体についての推論である。