時間とは何か、という問いに対して、以降では「物の運動である」と定義し話を進めようと思う。
本稿の目的は抽象的な時間という概念を空間化することで明瞭に指し示そうとするということである。
時間という概念を扱う際に、現在・過去・未来という三つの区分が自明であるかのように現出する。
この一般的で常識的な思索に至るのではなく、あえて時間というものを空間化した形で、言うなれば全ての時点が存在する現在であるかのような形でその概念を洗い出してみたいと考えた。
いわば、時間を空間化することは、時間という概念を無時間的に扱う、という、それ自体ですでにパラドクスを孕んだ思考であるのだが(それゆえに時間の本質が背理的に示されるのではあるが)ここでは一旦そのような判断を保留して、自由な思索の道を辿っていきたいと思う。
時間を空間化する、ということで想定しているのは、存在は如何にして成り立ちうるのか、といったメタ的な問いなしにはその定義を明瞭にすることはできないだろう。
そして、そのような問いを経ることによって、時間を空間化するという試みはその意義を持つように思う。
想定しているのは、存在を相対的な位置関係においてその運動の定点を観測しようとする思考実験である。
まず相対的な位置関係ではなく、絶対的な位置関係における存在の定点を定義しようと試みた時に起こる困難は、停止している存在の定義である。
例えば、観察者と対称という構造でもってその定義を試みようとした場合、運動する、つまり定点が常に変化する存在は連続的であり、その存在の非同一の同一性が認められるだろう。
※ここでの性質(同一・非同一)の対称は場所(定点)である
しかし、定点が常に変化しない存在は如何にしてその存在を定義できるのだろうか。
※前提として、存在の本質を非同一の同一性を持つこと、としているがこれ自体の検証も必要であろうと思う。また逆に非同一の同一性を持たない存在は如何にして存在可能か、といったこともまた検討する必要がある。
その方法は2つ考えられる。
その存在の構造を分解し、一つのエコシステムとしてみた時の不変性を指摘すること。もう一つはその存在以外との関係性における相対的な意味において定義を試みること。
この二つは実際には一つの傾向を持った二様相の分析であり、その傾向とは「解体された要素の関係性への関心」と言えるだろう。
ここでは後者について考えてみたい。
例えば対象Aに対して、関係を持つ対象1、2、3を考える。
対象Aとの距離を計算した結果、
A-1: 2
A-2: 5
A-3: 6
といった関係を持つとして、これが仮に
A-1: 6
A-2: 3
A-3: 7
といった計算がされたとしても、定点から見たAが停止しているように見える(あたかも水中で屈折して見える一つの棒のように)ということはありうる。
いわば、停止ということが、錯視のように起こっているだけであり、現実には変化の連続の中に巻き込まれることでしかその存在が定義できないのではないか、という仮説(その手段として空間化する、という方法を取る)は、時間という概念の明瞭化に役立つかもしれないと考え、記録した。