合理性の限界について

中国は過去に農作物被害の元となっていたスズメを駆除するように民衆に働きかけ、結果、中国ではスズメが激減したという話を聞いたことがある。

 

これは、一見合理的な話のように思う。なぜなら農作物を食べてしまうスズメを駆除すれば、農作物を食べる動物がいなくなり、農作物の収穫量が増える(前提として農作物の収穫量を増やすことに価値が置かれているという説明が必要かもしれない)からである。

 

ただ、この結果中国は飛蝗が異常増殖し、結果より深刻な飢饉が起こったという顛末らしい。

 

この象徴的な話から合理性の限界について考えてみたい。

 

合理的な判断が、果たして合理的なのかどうか、という、一見パラドクシカルな命題について。

 

この話を進めるためには前提をさらに明らかにする必要があるだろうと思う。

 

それは、判断はある前提を元に導き出され、合理性はその前提という限界のうちで成り立つ概念である、という点である。

 

この前提を真とするならば、先の中国の政策の話は、農作物被害の原因はスズメである、というある種の限界づけられた前提に基づいて下された合理的な判断ということが言えるのではないだろうか。

 

そして、判断は何らかの前提に置いて成り立つとするならば、客観的な、あるいは超越的な合理性といったものは成り立ち得ないのではないか、という気がしている。

 

演繹的に推論するならばこのことは自明であるはずであり、よって、「合理性」といった概念の神格化を否定する思考を導くことができる。

 

おそらく、理性といったものが客観的なもので、超主観的なものであり、よってそのような前提の限界といった前提が成り立たない観点というものもあり得たのだろう。

 

しかし、限界づけられない前提に基づいた判断といったものが成り立つのかといった問いに対しては有効な反論が思いつかない。