モデルとドメイン

前提

読解する上で、基本的な指針が私はある。それは、何らかの主張は、何らかの主張に対する反論として位置しているということである。

つまり、何かをわざわざ標榜するということは、それ以前に何らか問題となる課題があったり、著者の意見とは異なる言説あるいは現象があるのだろうと思う。

これは、学生時代に、ゼミで西洋哲学(この言葉も俗な手垢が付きすぎて好きな言葉ではないが)の話になり、教授に「なぜカントが純粋理性批判を書いたかわかるか?」と聞かれた出来事に起因する。

 

モデル

ドメイン駆動設計の冒頭でモデルの説明がされている。モデルとは簡素化である、と翻訳されている。

当面の問題を解決する上で関連する側面を抽象化し、それ以外の詳細を無視することが簡素化の詳解である。

 

ドメイン

一方で、ドメインの説明もされている。プログラムはユーザーの何らかの活動や関心と関係があり、ユーザーがプログラムを適用する対象領域がソフトウェアのドメインらしい。

一体どうゆう意味なのだろうか。

代数的に文を再構成すると以下のようになるだろう。

プログラム=ユーザーの何らかの活動や関心と関係があるもの

ドメイン=ユーザーが{(プログラム)=「何らかの活動や関心を遂行するために」}

適用する対象領域

 

意訳すると、プログラムをより端的に目的を遂行するための手段と定義してみると、ドメインとは、ユーザーが行う手段の目的になるだろうか。

 

文中には例として「ソースコード管理システムのドメインはソフトウェア開発そのもの」と記載がある。

 

これを先ほど導いた意訳(で示した論理)に照らすと何がわかるか。

 

ソフトウェア開発が目的とした時に「その手段としてソースコード管理システムがある」としたなら、先の意訳は大きく外れているわけでもなさそうである。

 

収束

あまり話を広げすぎないように、一旦ここで前提を振り返り、ここまで見てきたモデルとドメインについて整理しよう。

 

後続の文章でモデルとは「選び抜かれてシンプルにされ、意図的に組み立てらえた知識の表現形式」とある。先に挙げたモデルとは簡素化であって、問題を解決する上で関連する側面の抽象化であるとあった。

 

これを一言でまとめるならば、あくまでモデルは手段である、ということではないだろうか。

 

それに対して、(コンサル御用達の概念である手段・目的という枠組みを前提にして考えるなら)ドメインとはまさにその目的のことであろう。

 

そうなると、システム開発とはモデル(手段)ではなく、ドメイン(目的)にフォーカスすることを是としているように個人的には感じた。

ドメイン駆動設計を自分なりに翻訳する(はじめに)

モチベーション

先日友人からおすすめいただいた技術書が自宅に届き、読んでみたもののまるでわからなかった。

私の勝手な認知の構造として、何らかの前提が欠如した言説は理解できず、その言説を説明するに足る合理的な前提を用意すれば理解できないものはない、という信念がある。

よって、私が理解できなかった技術書は、何らかの私が踏まえられていない前提を含んだ体系であったために理解できなったのであり、ならばその踏まえられていない前提が明らかになれば、私はこの技術書を理解できるようになるだろう、という判断をした。

 

その、何らかの前提とは、おそらくドメイン駆動設計についての知識であると思われるので、今回、ドメイン駆動設計について理解をしたいと思った。

理念

先にも少し触れたが、これから書き物を進めるにあたって、私なりの二つの信念について明らかにしておこうと思う。

1、理解とは定理から推論されたものの集積であって、定理から導かれるならば、理解されないものはない

2、その対象に関する理解を自らの言語構造に取り入れ、その言語を扱う(ゲームする)ことによって字面としての意味ではなく、現実性を伴った意味として自身の認識を拡張できるであろう。

手法

上記理念に従って、以降は読んだ内容を自身が持つ概念領域から再構成することによって、意味を獲得しようと試みる。

また、理解においては1で示した定理(前提)から導かれるように構造化することによって、そのゲームすることの正統性を担保したい。

 

 

情報は均質に与えられるだろうか?

 

ふと、検索したり、調べることでなんでもわかるかのように考えることが多い。

 

ググればなんでも出てくる時代で、まずは調べることを重視される傾向にある。

 

確かに、それは理論的?には正しい。確かにキーワードをもとに検索エンジンで調べれば文字は出てくる。

 

ただ、それを知識や知恵のレベルに昇華するのは、単に情報を受け取るだけの状態を比較したときに大きな開きがあるのではないか、という気がする。

 

データ、情報、知識、知恵というような、認知における偏向があるとした場合に、検索することで得られるのは情報レイヤーまでであろうと思う。

 

それを実践できたり、活用できたり、価値を見出して社会に還元しようとした場合に、おそらく検索しただけでは成立せず、その先の知識・知恵にまで昇華する必要があるだろう。

 

その中で、他人に聞くという方法は検索するよりも効率の良い方法なのではないだろうか。

 

ググればなんでも分かるかのような、どこか均質な世界観に少し疑問を持った。

 

作曲におけるインターフェースについて

例えば曲作りをしようと私が思い立ったとする。

 

Mac Bookの標準アプリを使い、かつキーボードで音を作ることもできれば、鍵盤を買ってきてPCに繋ぎ、鍵盤から音を作ることもできる。

 

これは、どちらも音を作る、という形相的な意味で言えばどちらも同じ行為と定義して良いだろう。

 

しかし、インターフェースの違い(つまりキーボードと鍵盤)という点を加味すると私は全く異なる作業をしているのではないだろうか。

 

果たして、行為は形相のみを考慮した本質論的な観点から考えるべきなのか、質料的なインターフェースの観点も含めた身体論的な観点から考えるべきなのか、どちらなのだろうか。

意味と記号 類似的なものと因果的なものの差異について

読書について考えてみたい。

本を読む意味についてである。

 

書かれたことを忠実に(これは果たして可能だろうか)理解するということを因果的に記号の意味を捉えることと定義してみよう。

 

一方、書かれたことから想像する内観の活動を記号の意味を類似的に捉えることとしてみよう。

 

私はおそらく、後者のような読み方をすることが多い。本を読みながら関連する事柄が連鎖的に想起されてくるし、それによって単的な思考のノードを類似というエッジで繋いでいく作業が好きだ。

 

そのように読書をしていると、本自体の内容はほとんどと言っていいほど覚えていない。

 

これは読書なのかと言われると答えに窮するが、少なくとも、私の体感としては(常にそうできるわけでもないのだが)ツリー状に観想(思弁)が連鎖していく感覚が非常に心地よい。

 

またこれは個人に集約され、完全にその構造自体はオリジナルなものであろうし(それらのノードは複写的かもしれないが)それは自己増殖的に広がっていき、中心を持たなくなる。

 

正確には、次第に中心を持たなくなっていく。

 

この中心を持たなくなっていくという点でこれはツリーではなく、リゾームなのかもしれない。

 

このような、構造化されたものではなく、無秩序に見える変化の連続こそ、現実的なものの表れとして一義的であるように思う。

 

もちろん、思考法のようなフレームワークに乗せた場合にはその限りではないが。

 

道具としての存在と消費について

一見、フリーランスで働くことはメリットが多いように感じる。

 

確かに収入も上がり、時間の制約を受けないといった点ではメリットであろう。

 

しかし一方で、フリーランスとして求められることはその職能をクライアントのために発揮することであろう。

 

ここでは明確な目的に対する手段として自己の存在を消費しているような解釈も可能なのではないだろうか。

 

このような仮説をもとに思考を巡らせてみたい。

 

この私としての人間が、道具的に、つまり目的に対する手段としてその存在を切り売りする、このことは、果たしてフリーランスで働くということに限って言える話なのだろうか。

 

例えば、サラリーマンは時間的な拘束を受ける。

 

これもまた一個人の有限な人生を切り売りして活動しているといえる。

 

そうなると、労働者という立場である時点でこの構造からは逸脱することは基本的にはできないだろうと思う。

 

そうなった場合に、いかに生きるか、という問いを立てようとするなら、あるいは道具的存在としての私は倫理的なのか?という問いを立てたならば、この問いに対してはどのような応答が可能なのであろうか。

 

 

内観におけるシニフィアンとシニフィエの考察

ある朝、目が覚めて怖いという感覚だけが残ってはいるが、その怖かったはずの夢自体の内容が忘れられているといったことはないだろうか。

 

このような何らかの感情と、それが表現される記号が乖離し、どちらか一方のみが残る、といったことが可能なのではないかと考えている。

 

この何らかの感情をシニフィエと定義し、それが表現される記号をシニフィアンと定義して以降の考察を進めたいと思う。

 

ここで、そのものの性質について、あるいは偶有的な性質と本質的な性質について考えてみたい。

 

このような区分けは私が知る限りアリストテレス形而上学に始まる区分だったと記憶している。

 

広く、私に現前している対象について考えたときに、ほとんど常に与えられるのは、先に定義したシニフィアンシニフィエが区別されない場合ではないだろうか。

 

厳密には、言表行為によって「それ」が現実的にあるとされるならば、相互の関係は切っても切り離せないものとなるだろうと思う。

 

しかし、一番最初に挙げた例にあるような「それ」が片手落ちの状態で私に直接与えれる場合もある。

 

この例外的なケースを、あくまで例外という意味での判断ではなく、保留してそれ自身を分析してみようと試みるのである。

 

その際に、言語学で使われる概念であるシニフィアンシニフィエがこの事象を分析する際の構造としてうまく適用できるのではないかと考えた。

 

言語学的により専門性ある言説の文脈から考えると、このような適用は意義から逸れるのかもしれない。

 

しかし、現実を分析する手段として、賢人の知を扱い、現実への理解に対してその解像度を上げることができるならば、いくつかの瑣末な批判は考慮する価値を持たなくなるかもしれない。

 

あくまで研究ではなく「探究」として考えを展開していきたい。

 

これまでの話を整理すると、夢は記号としてシニフィアン的な役割を持つ。一方で、目覚めた時の感情はシニフィエ的な役割で語ろうと思う。

 

これらのことを考えたときに類推されるのは、PTSDのような症状である。

 

戦争後も戦争当時の記憶がフラッシュバックし、心身に異常をきたすとされる障害は、この記号(シニフィアン)が感性との因果関係を持たず(あるいは、近似的に感じるその感度が高まる、とも解釈できるのかもしれない)に読むことと解釈している。

※このことに関しては専門ではないため、一種の仮説と考えてもらいたい。

 

その場合に、因果的に感情、つまりシニフィエが私に与えられ、それによって心身に異常をきたすのだろうと考えている。

 

おそらく、このような症状についての対症療法は慣れ、なのだろうが、このシニフィアンを書き換えることができればこのような障害を解決することができないのだろうか。