道具としての存在と消費について
一見、フリーランスで働くことはメリットが多いように感じる。
確かに収入も上がり、時間の制約を受けないといった点ではメリットであろう。
しかし一方で、フリーランスとして求められることはその職能をクライアントのために発揮することであろう。
ここでは明確な目的に対する手段として自己の存在を消費しているような解釈も可能なのではないだろうか。
このような仮説をもとに思考を巡らせてみたい。
この私としての人間が、道具的に、つまり目的に対する手段としてその存在を切り売りする、このことは、果たしてフリーランスで働くということに限って言える話なのだろうか。
例えば、サラリーマンは時間的な拘束を受ける。
これもまた一個人の有限な人生を切り売りして活動しているといえる。
そうなると、労働者という立場である時点でこの構造からは逸脱することは基本的にはできないだろうと思う。
そうなった場合に、いかに生きるか、という問いを立てようとするなら、あるいは道具的存在としての私は倫理的なのか?という問いを立てたならば、この問いに対してはどのような応答が可能なのであろうか。