ツリーとリゾーム(自我について)

ひとつの直観から始めるとするなら、異なる場における私の違いについて、どこか虚実的で後ろめたさを感じたことがあった。

 

おそらくその前提には、私は統一的な存在である、といった命題を想定してそう思ったのだと思う。

 

しかし、私は統一的な自我のようなものによって成り立っているのだろうか。

 

いやむしろ、相互に異質的な私が複数あり、それらが横断的に繋がることで一人の私を想定しているのではないか、という気がする。

知の発達段階について

思想的な言説を概観した時に、一つの仮説を立てることが可能なのではないか、と思う。

それは

1.定義

2.条件

3.反復

 

上記三つの段階を経て思想は発展することが可能なのではないか、ということである。

また、3.反復については、その思想を動的に定義する反面、現実性との乖離を契機として解体されてゆく。

 

また、その解体によって批判されたその思想的言説は、さらに定義を加えられ、条件付けられた末に再度反復する。

 

この、定義と名指したそれは、ある意味での差異化である。それは必然的にそれ自体での意味ではなく、何らかの関係を持った上で成り立つように思われる。

 

条件は、それらの定義における論理(因果・類似)が加わった状態を指す。

 

いわば、原子的な存在から分子的な存在へと昇華される。

 

それらが動的に動くことが反復にあたる。

 

反復はそれまでの定義、条件とは異なる性質である。なぜなら、その二つは静的であることに対して、これは動的であるからだ。

 

動的である、ということは、その言説がシステムとして活動することであって、またそこには、言語という静的なそれを構成要素として持ちながら、それ自体のシステムは反復する、という意味で現実性を持っている。

 

ただ、この現実性は、現実を描写した物であるが故に現実の時間的性質(流転)を原因として乖離してゆく。

 

その不可抗力としての乖離が思想的言説を限界たらしめ、結果的には解体されるのが思想という物なのではないだろうか。

時間を空間に変換する

時間とは何か、という問いに対して、以降では「物の運動である」と定義し話を進めようと思う。

 

本稿の目的は抽象的な時間という概念を空間化することで明瞭に指し示そうとするということである。

 

時間という概念を扱う際に、現在・過去・未来という三つの区分が自明であるかのように現出する。

 

この一般的で常識的な思索に至るのではなく、あえて時間というものを空間化した形で、言うなれば全ての時点が存在する現在であるかのような形でその概念を洗い出してみたいと考えた。

 

いわば、時間を空間化することは、時間という概念を無時間的に扱う、という、それ自体ですでにパラドクスを孕んだ思考であるのだが(それゆえに時間の本質が背理的に示されるのではあるが)ここでは一旦そのような判断を保留して、自由な思索の道を辿っていきたいと思う。

 

時間を空間化する、ということで想定しているのは、存在は如何にして成り立ちうるのか、といったメタ的な問いなしにはその定義を明瞭にすることはできないだろう。

 

そして、そのような問いを経ることによって、時間を空間化するという試みはその意義を持つように思う。

 

想定しているのは、存在を相対的な位置関係においてその運動の定点を観測しようとする思考実験である。

 

まず相対的な位置関係ではなく、絶対的な位置関係における存在の定点を定義しようと試みた時に起こる困難は、停止している存在の定義である。

 

例えば、観察者と対称という構造でもってその定義を試みようとした場合、運動する、つまり定点が常に変化する存在は連続的であり、その存在の非同一の同一性が認められるだろう。

※ここでの性質(同一・非同一)の対称は場所(定点)である

 

しかし、定点が常に変化しない存在は如何にしてその存在を定義できるのだろうか。

※前提として、存在の本質を非同一の同一性を持つこと、としているがこれ自体の検証も必要であろうと思う。また逆に非同一の同一性を持たない存在は如何にして存在可能か、といったこともまた検討する必要がある。

 

その方法は2つ考えられる。

 

その存在の構造を分解し、一つのエコシステムとしてみた時の不変性を指摘すること。もう一つはその存在以外との関係性における相対的な意味において定義を試みること。

 

この二つは実際には一つの傾向を持った二様相の分析であり、その傾向とは「解体された要素の関係性への関心」と言えるだろう。

 

ここでは後者について考えてみたい。

 

例えば対象Aに対して、関係を持つ対象1、2、3を考える。

 

対象Aとの距離を計算した結果、

A-1: 2

A-2: 5

A-3: 6

 

といった関係を持つとして、これが仮に

A-1: 6

A-2: 3

A-3: 7

といった計算がされたとしても、定点から見たAが停止しているように見える(あたかも水中で屈折して見える一つの棒のように)ということはありうる。

 

いわば、停止ということが、錯視のように起こっているだけであり、現実には変化の連続の中に巻き込まれることでしかその存在が定義できないのではないか、という仮説(その手段として空間化する、という方法を取る)は、時間という概念の明瞭化に役立つかもしれないと考え、記録した。

合理性の限界について

中国は過去に農作物被害の元となっていたスズメを駆除するように民衆に働きかけ、結果、中国ではスズメが激減したという話を聞いたことがある。

 

これは、一見合理的な話のように思う。なぜなら農作物を食べてしまうスズメを駆除すれば、農作物を食べる動物がいなくなり、農作物の収穫量が増える(前提として農作物の収穫量を増やすことに価値が置かれているという説明が必要かもしれない)からである。

 

ただ、この結果中国は飛蝗が異常増殖し、結果より深刻な飢饉が起こったという顛末らしい。

 

この象徴的な話から合理性の限界について考えてみたい。

 

合理的な判断が、果たして合理的なのかどうか、という、一見パラドクシカルな命題について。

 

この話を進めるためには前提をさらに明らかにする必要があるだろうと思う。

 

それは、判断はある前提を元に導き出され、合理性はその前提という限界のうちで成り立つ概念である、という点である。

 

この前提を真とするならば、先の中国の政策の話は、農作物被害の原因はスズメである、というある種の限界づけられた前提に基づいて下された合理的な判断ということが言えるのではないだろうか。

 

そして、判断は何らかの前提に置いて成り立つとするならば、客観的な、あるいは超越的な合理性といったものは成り立ち得ないのではないか、という気がしている。

 

演繹的に推論するならばこのことは自明であるはずであり、よって、「合理性」といった概念の神格化を否定する思考を導くことができる。

 

おそらく、理性といったものが客観的なもので、超主観的なものであり、よってそのような前提の限界といった前提が成り立たない観点というものもあり得たのだろう。

 

しかし、限界づけられない前提に基づいた判断といったものが成り立つのかといった問いに対しては有効な反論が思いつかない。

設計するということの性質についての思索

設計する、Designするということについて考えてみた。

 

一言で言えば、イメージを概念化することが設計なのではないか、という気がしている。

 

例えば、何か物を作るとして、その物を作ろうとしている時には、当然ながらその物自体は存在しない。

 

では、それを存在させるためにどうするか。

 

存在は如何なる要素で構成されているのか、について前提を整理する。

 

存在は、設計という文脈においていかにして成り立つのだろうか。

 

ここでは、アリストテレスの形相と質料の考えを引用して考えてみたい。

 

形相とは、そのものの本質であり、質料とはその物自体の物質的な意味である。

 

例えば、時計を例に考えてみよう。

 

時計の形相は何かといえば時を刻むということである。時計は定期的な速度で変化を計測する(厳密な意味で言えば、これは「時間」を計測しているのではなく、時刻を刻んでいる、という意味の方が正しいように思う)本質があるだろう。

 

一方で、時計には、水時計もあれば日時計もあり、腕時計もあれば、砂時計もある。

 

これらは全て、時刻を刻むという同一の形相において、異なる質料を持つ存在と考えらえるだろう。

 

このように、存在する対象は、形相と質料という構造を持つ、という前提を真なる前提としたときに、より詳細に設計することの「意味」がその明瞭性と複雑性を持って立ち現れるだろう。

 

ここでは、設計の中でも、ドキュメントベースの設計を念頭に置いて、その性質を明らかにしてみたい。

※例えばデッサンもまた一つの設計の在り方のように思うし、また、建築などでは言語ではなく、図面といった形で設計されることがあるだろう。ただ、これらの例は石器絵の本質を言語によって説明するにあたっては表現しにくいように思うため、以降は言語的に制作された設計というテーマに絞って話を進めたいと思う。

 

端的に言えば、言語的に制作された設計というものは、存在の前提(形相と質料)に従って、各要素について定義していく作業なのではないかという気がする。

 

そうなると、創作物によって、定義すべき要素が変化していく。

 

例えば、彫刻が創作物としたならば、一体何を決定する必要が(そのものの構造がどのようであるか、ということに限界づけられる)あるだろう。

 

それは素材やモチーフ、そういったものの定義が必要だろうと思う。

 

また展示場所というのも、その物の存在に干渉してくる要素かもしれない。

 

室内展示だからこそ表現できる限界があるはずであり、また、その逆も然りであろう。

 

ある種、設計とは、この事態の不規則な連続のうちに一つの秩序をもたらすことに思える。それは論理によって構成され、またその論理が可変の世界の一要素を静的に固定し、またそれ自体が変化の流転に埋没してゆくというダイナミックな構想が創作であり、またそれを実現する手段が設計なのだろうと思う。

定数と変数についての観点からの差異について

実生活の中で定数だと思っていた要素が実は変数であったといったことがないだろうか。

 

例えば、今この生活に満足している私がいたとして、このときが未来も続いていくような、そんな帰納的推論の結果導き出される仮象的な未来像がある。

 

この未来像はどこか誤りを含んでいるのではないか、というのが私の関心である。

 

この現在における定数的なそれらは、果たして真に定数なのだろうか。

 

定数であるからにはそれは不変であるはずだし、そのような意味で以って定数という概念の正当性は担保されているはずである。

 

しかし、その定数的なそれは、正統な意味で以って不変なのだろうか。

 

比喩的に語るならば、私は目の前の川を見て、この川がいつまでも穏やかなせせらぎを持ちながらあり続けてくれるだろうと思うのだろうと思う。

 

しかし、その穏やかはせせらぎは定数ではないだろう。

 

きっと雨が降れば川は荒れ、雪解けになればまたそれはそれ自体ではないはずだ。

 

そのように考えると、私が定数だと捉えたそれは、果たして定数なのだろうか、という検証が必要な気がしてくる。

 

不確かなものは推論の根拠としてはならない。自明なものから推論した結果が真理に到達できる方法であるとするならば、私はその自明性を何によって担保されていると判断すれば良いのか、といった基礎づけ的な観点に自然と関心が向く。

 

この問題はおそらく、観測する地点の問題なのだろう。

 

それは単に位置的な意味だけではなく、時間的な意味で。

 

そうなると、一体何が普遍的な判断の足場であり、またそれが自明なのか、という無限後退が生まれる。

 

すると私は途端に考える足場を無くしてしまう。

世界の複雑性をそのままに言語を通して描写するということについて

分かりやすさや明瞭に語ることについての価値のようなものはビジネスの世界で強い立場をもっているように思う。

それが自明に正しいことであり、そうあるべき、といった価値観から一旦距離を置いて、この複雑怪奇な世界をありのままに描写するということに主眼を起き、考えてみたい。

 

ここで一つの問いを立ててみる。世界は論理によって構成されているのか、論理によって世界は構成されているのか、といった問いである。

 

前者であったとするならば、世界は論理ではない、ということがない前提によってその定義を限定されることになるが、後者の場合、世界の側が基礎的であって、それを描写する手段として論理が方法的に扱われれる、といった立場になる。

 

このことは、一見瑣末な話の方でいて、そうではないだろう。

 

なぜなら、事態の正統性を問うたときに、前提となる確らしさが変わるからだ。

 

おそらく、世界は論理によって描写されているであろう。

 

論理が世界を構成しているとすれば、その世界と名指されたそれは静的な性質で以ってその存在を定義されているはずであり、一方で、論理によって世界が構成されているとすれば、論理はある種の手段であり、その世界それ自体は論理に何ら制約されることなく存在可能であろうと思う。

 

一言で言えば主従関係が話の主題なのであって、世界が主であり、従として論理がある、ということを前提に話を進めたいと考えている。

 

そうなった場合に、一般的な言説としての世界について端的に語るという行為そのものが、その主従関係を前提とした時に越権的なそれなのではないか、という疑問がある。

 

いわば、整理されたそれは、文学に近い虚構によって成り立つ言語によって構成された創作物に成り下がり、それ自体は何ら世界とは似ても似つかない寓物なのではないか、という気がしている。

 

そうであったとして、何が問題なのか、という問いに対しては、いますぐ答えを持ち合わせているわけではないのだが、それが性質として、虚構の元に成り立ち、それ自体が実在的な意味での価値を持たないのではないか、というくらいの仮説だけが残る。

 

ここまで言及してしまうと、実在的な世界がそもそも成り立つのか、といった問いも可能であり、それに対する回答は持ち合わせていないのだが、少なくとも、構造上はそのような言説の無意味さのようなものを明示するだけでも、この本文がある意味のようなものは認められるかもしれない。

 

通俗的なイメージによって構成されたライフプランや、帰納的推論の結果導き出された陳腐な仮説的未来について私たちはなぜ一喜一憂する必要があるのだろうか。

 

それらになぜ人は病み、そのことに対する関心に時間を割いてしまうのだろうか。

 

それらの仮象的言明が立ち現せる幻想に対して直視するのではなく、このありありとした現在に対峙せずして、何を思考すべきというのか、ふと疑問に思うことがある。

 

もちろんそうしたことによって、世俗的な意味での意味のようなそれは獲得できないだろうと思う。

 

しかし、それ以外に思考すべき課題が私の目の前にあるようにも思えない。

 

手垢のようにこびり付いている世俗的な価値のようなものについて、それに私が限定されることなく、本来考えるべき問いについて直視できるような自由さを獲得しようと努めたいと常に思いながらも、それ自体の虚無性も自覚しており、またそれがプラトンの洞窟の比喩のような形でニヒルな意味を帯びていることもまた事実であり、その動的な反復の中でただ思考を巡らすことしかできない現実もまた、受け入れるしかない。

 

常に静的な意味付けによって世界を切り取ろうとする言語の働きに対して、常に変化するこの現実にどうアプローチできるのかといったことが一つの困難であり、ある種、それに自覚的であるということ自体に答えがあるような気もする。

 

限界を限界として定義すること、それ自体でそれ自体に意味はないとしても、そのことによる意味の変容は副作用として考えうる。その副作用こそが直接それと言い表すことよりも現実に近いとすれば、それはそれ自体で意味を持つのではないだろうか。

 

そういったことを考えながら、この世界の複雑性をそのままに言語を通して描写することの前口上として、いやそれ自体がその描写として記録しておきたかった。