メメントモリと反転する概念としての死

死を思うときに最初にイメージしたのは墓掘り人の姿だった。

 

それは、積極的に死へ向かう作業者としてのそれである。

 

それは指向する対象が死であり、その対義としての生はない。

 

むしろ、死が生を基礎付けているような感さえある。

 

ただ、ふと、メメントモリという言葉は生き生きしたもののようにも感じていた。

 

むしろ死をタイトルとすることで反転としての生がより強調される標語なのではないか、という意味で。

 

これは単純な二元論的解釈(ここでの二元論は認識論・存在論的意味ではない)を元にした機械的な作用かもしれない。

 

より平たく言えば、幸福を求めるものは幸福ではない、という状態であることが投影されているといったような観察に近い。

 

そういった意味で、メメントモリは直接的な意味でのそれを希求したものではなく、むしろその対象と状態の反転のような観察に照らして理解するのがよりその言葉の目的や意味の解釈として適当なのではないか、とふと思った。