教育という概念について
# 問題提起
一見教育には積極的な意味があるように感じる。
教育することで犬は「賢」くなり、人間はその可能性を広げることができる。
逆に教育されていない犬は野生的で、またその人間は不自由である。
ただ、これは一方で自由という問題を考えた時、果たして現実の教育と呼ばれるそれらの制度や構造は果たして当初考えていたような積極的な意味を持ちうるのだろうか、ということを考察したい。
# 教育が前提とする構造
そもそも教育という概念あるいは仕組みが成り立つためには、どのような背景が準備されているのだろうか。
例えば、教師のいない教育は成り立つだろうか。
訓練のない教育は成り立つだろうか。
そもそもなぜ教育しなければならないのか。
教育に関連する事柄について、もしそれらがなかった場合に、当初考察の対象としていた教育という概念はどのように維持できる、あるいは維持できないようになるのか、という角度から話を進めてみたい。
そうすると、教育には教育者と被教育者というアクターが前提としていることがわかる。
また教育手段としての訓練があることがわかる。
また、自然状態から理想的な状態(教育の目的)という分断があることがわかる。
犬の例を考えてみよう。
犬を教育(一般的には躾と呼ばれる)する目的とは何か
排泄する場所を躾けるとき、私たちは何を目的として、あるいはどのような不利益があってそうするのだろうか。
家で犬を飼っていたとして、至る所に糞尿を撒き散らす犬は、人間が衛生的に暮らすという目的に対しては強い負の影響を与えるだろう。
またそれは賢くない犬として倦厭される根拠にもなっているように思う。
つまるところ、犬を躾る目的は人間の側の暮らしを営む上での自明さによって担保されていると考えられるように思う。
あくまでこれは目的のみを考察した教育という概念の一端を整理したに過ぎないが、少なくとも、この概念には分析する余地があることは示すことができたように思う。
# 教育によって失われるもの
ここでも一つ前提を明らかにして考察を進める必要があるだろう。
自由という、いわば主体の選択肢が与えられている状態について、このことに肯定的な価値を認めた時、以降の話は理解されると思う。
また一方で、誰もが奴隷的な状態を良いとはしないであろうし、何らかの制約があるよりも、制約なく、あるいは比較的少ない制約で選択できるということの方を良いと考えるのは自明なことと考えてよいだろう。
まさにこれから問題として考えていきたい教育それ自体の正統性(正当性ではない)について批判的に検討しようとした時、この自由という概念が支点となって概念が変容していく。
教育という主体の自然状態からの変化は、本来そうあるという意味での自由と相克するのではないか、というのが問いである。
ただ、これはリベラルアーツというコンセプトが示すような自由さとの関連からも考えなければならない。
つまり教育という変化をすることでしか得られない自由(不自由の自由)もあり、それが本来的な自由と比較した時に、本来的であるという正統性でもって、自然状態を是とすることが違いにできないという不整合さを解決しなければ、教育というテーマを批判したことにはならない、という側面もある。
今回はこの辺りにして、以降はまたの機会に考えたい。