ツリーとリゾーム(自我について)

ひとつの直観から始めるとするなら、異なる場における私の違いについて、どこか虚実的で後ろめたさを感じたことがあった。

 

おそらくその前提には、私は統一的な存在である、といった命題を想定してそう思ったのだと思う。

 

しかし、私は統一的な自我のようなものによって成り立っているのだろうか。

 

いやむしろ、相互に異質的な私が複数あり、それらが横断的に繋がることで一人の私を想定しているのではないか、という気がする。