物事を構造化して捉えるということ

Aという対象に対して、その体系を示して語る方法は構造的な示し方だと思う。

 

日常生活のなかでわかりやすいのは住所だろう。

 

市区町村から始まり、住んでいるマンション名までを連ねる伝え方は構造的だろう。

 

構造的な語りは、冗長的である一方で、決まった形式を共有する人たちの間では認識の齟齬が少ないということがメリットであろう。

 

しかし、属しているその場がどのような構造を持っているのか、というのは、思考の枠組みなしには成り立ち得ない。かつその構造は事実というような直観で捉えられる何か、というよりも、体系的に学ばれた知の系譜によるものでしかない。

 

裏を返せば、学んでしまえば(暗記してしまえば)獲得でいるものが知の系譜であろうと思う。

 

構造化して語る前提に知の系譜がある必要があるならば、知の系譜がない時点で構造化して語ることは難しいだろう。

 

文法も同じく、主語と述語で構成された文という形で表現するのが形式であろう。

 

ただ、文法は知の系譜として誰かに教わり、それに従う形で私たちは獲得したのだろうか。

 

むしろ、誰かの語りを聞き、その形式に合わせるという形でなし得たのではないだろうか。

 

整理されていない経験が蓄積され、その結果として昇華された結果が文法という形式としてあるのではないか。

 

となると、座学的に学びうることと、経験から昇華されていくものとの2種類の知があることになるだろうか。