知覚の因果説と現在主義から帰結するパラドクス

一般的な理解として、物が見える時の説明はこのようなものではないだろうか。

対象があり、その対象に光が当たり、その光が反射し、その反射した光が私の網膜に到達し、その網膜に与えられた刺激が、信号として脳に送られ、その結果見える。

 

少々冗長的かもしれないが(詳細な点については誤りがあるかもしれないが)、大綱としては以上のような説明になるだろう。

 

一方で現在主義の命題は以下の通り。

 

現在存在するもののみが存在する。

 

つまり、過去や未来は存在せず、現在のみが存在する。

 

このどちらも、常識的で何ら問題がない説のように思える。

 

しかし、この二つの説を考えた時に、次のような事態に陥るのではないか。

 

知覚は到達するまでに経路を追う。経路を追うときにも時間は経過している(変化しているから)。だから、外の刺激を得てから実際に見える、となるまでは時間幅がある。ならば、見えている、という感覚は「見え」を知覚した時点よりも過去なのではないか。

現在主義の命題によれば過去は存在しない。ならばこの知覚された何かは存在しないのではないか。

 

この点が私が学部生の頃、問題意識として持っていた問いであり、ここが卒業論文の要旨であった。