この私という、言語で表現できない唯一さの話

言語は物事を均質に、標準的に表現することができる道具として用いられているように思う。

 

例えば、私という言葉で表現されているのは、太郎でも、花子でもなく、抽象的な私を指している。

 

そこには話者を指すユニークなシンボルもなければ、小説の中の主人公のセリフのように、現実性も必要としない。

 

ただ、元に存在しているこの私は存在していて(疑いようがなく、いやむしろ疑いうるが故に存在している)、その私を表現する手段が言語にはないと思う。

 

もちろん、文脈や、シチュエーション(誰かと会話している時のような)という意味ではありうるのだが、しかしそれは言語の機能としてというよりも、副次的な要素による補完として成り立つのであって、決して言語それ自体がこの私なるものを指し示す役割を担うことができているわけではないだろう。

 

常に言語で私と表現してしまった時にこぼれ落ちてしまうこの私性なるものは、日常生活の意識の中では常に足場となっているはずなのに、それが隠蔽されている構造を考える時、言語の可能性(同時に不可能性)が見えてくるように思う。

 

もちろん、そんなことを考えずとも日常生活はうまくいく。また一方でこの私性などない、という反論も(成功するかしないかは別として論理的に)可能であろう。

 

しかし、このような問い(この私性を言語は表現できるのか)に何らかの意味があるとすれば、目的があるとすれば、言語についての知を広げる(新たに獲得する)ことができるという点であろう。

ただ一方でこの現前する世界に、私は含まれていない。もちろん鏡を見れば私の写しは見えるので、因果的に私の存在は肯定されるのかもしれない。しかし、この視界のうちには私は存在しないのである。このことは大森荘蔵が立ち現れ一元論の二元論から一元論への導入に際して用いた論法ではあるが、これは否定のしようがない。

 

ただ、感覚という刺激を受け取っている本体は存在するはずであって(透明人間は世界を見ることはできないであろう)、そういった意味で、状況証拠から導かれる推論の結果として、想定される「在る」私はありうるだろうと思う。

 

人に見せる構造的な文章というよりは個人的な情緒に乗せた五月雨な文といった格好となってしまったが、今日のところはここまで。