可能性の2つの顔

可能性は大きく分けて2つの見え方があると思う。

ひとつは論理的な可能性、もうひとつは現実的な可能性だ。

 

論理的な可能性を考えてみよう。

論理的に可能であるということはいかにして思考可能かを考える。

結論、言語的に制作できる事態はすべて論理的な可能性にあるだろう。

 

つまりどうゆうことなのか。

 

人は考える時、一応文法に則って記述するなり、発話するなりして意味を構成しようとする。

これは一般に文と呼ばれると思う。

文には意味がある。そしてそれは文法に従っている。

最低限主語があり、述語があって意味が構成されている。

 

これではじめて文は成り立ち、同時に意味が生まれる。

 

論理的な可能性について考えると、この意味を持つ(文として構成できる)ということで既に論理的な可能性というカテゴリーに含むことができると思う。

 

明日、雨がふるかもしれない。明後日雨が降るかもしれない。

 

こんなふうに、文になっているならば、それは既に論理的な可能性を示す意味のひとつになることができると思う。

 

大雑把に言えば、言えてしまえば論理的な可能性になる、と言いたい。

 

一方で現実的な可能は少し難しい。

 

一般的に、現実的に起こるうるかどうか、という判断を人がどのようにしているかを考察することから始めよう。

 

人はいかにして現実的な可能性とそうではない可能性を区別しているのか。

 

私の見解としては、それは過去に依存した判断だと思う。

 

「現実的」という概念は、過去の事象の集積を前提として、それらを帰納的に扱い、その帰結として現実性を規定しているように思える。

 

つまり

 

以前よくここでは魚が釣れたから、今日もきっと魚が釣れるだろう

 

というような文が現実的な可能性を示しているだろう。

 

しかし、この「現実的」「現実性」という概念は怪しい。

 

現実とは何か、現実的であるということはどのようにして言えるのか、現実性はいかにして可能になるのか、など問をあげればそれに対して私は答えられる自信がない。